そこに存在するもの 8




過ぎ去った日々を思い出す。
青い空はどこまでも高く澄み渡り、温かな日差しが地上を照らす。
吹く風は優しく頬を撫で、どこか寂しい気持ちにさせる。
胸の中にぽっかり空いてしまった隙間を埋めるように、
日々を生きているのだろうか?
優しさも寂しさも、表裏一体の気持ちで
失って初めて気付く事の多さに、愕然とするのも少なくない。
ただ幸せを願い。
ただ安らぎを求める。
悩みもがき、苦しんだ日々は今は遠い。
一片の桜の花びらが、どこからか風に舞って天へと上っていく。

和希さん、今は安らかでいますか?

未来、お前は幸せか?

ただ空を仰ぐ。
懐かしい日々を胸に抱きながら・・・




病院の廊下をただ黙々と歩いた。
すれ違う知らない人たちにすら、責められているような不思議な感覚が俺を捕らえる。
一歩一歩着実に近づいてくる未来の病室。
最初になんて声をかければいいだろう?
一週間ぶりの再会を未来は喜んでくれるだろうか?
また和希さんを思い出して、泣いてしまうだろうか?
その時、俺はどうしればいいだろうか?
悩んでもしょうがない事なのに、考え込んでしまう自分がおかしい。
俺ってば、こんなに女々しい奴だったかね・・・
最近は自分がよくわからない。
一応二十歳も過ぎた成人男子としては、
確固たる自分の考えってものがあったはずなのに、それも揺らぐ。
エレベーターから降りて、右に曲がる。
ナースステーションの前を通り過ぎ、3つめのドアを開ければ未来がいるはずだ。
個室のドアを軽くノックしてみる。
「未来?俺だけど」
返事を待たずにゆっくりとドアを開けると、
出口を見つけた風が、カーテンを揺らした。
ベージュのカーテンに遮られた夕暮れの日差しは淡く部屋を染めていた。
「ひさしぶり」
ベッドに腰掛て、こちらに微笑みを向けたのは未来ではなかった。
未来は、ベッドの上で静かに寝息をたてている。
「・・・和希さん・・・」
「もう来ないかと思っていたよ」
穏やかな表情を浮かべたその幽霊は、ベッドに腰掛けているにもかかわらず
スプリングを沈める事も影を映す事もなく。
その存在の希薄さを示していた。
「この間は悪かったね。もう来てくれないかと思っていたよ」
どこまでも柔和で穏やかな態度を崩すことなく、しゃべり続ける彼の中に
俺には到底理解できないような激情が渦巻いているのを、もう知っていた。
どんなに和希さんが誤魔化そうとしてもわかってしまうほど。
この人はいつもこうだっただろうか?
優しい兄の仮面。
優しいくせにちょっと皮肉屋のテンポの良い会話をする男の仮面。
いったいどれほどの仮面を被っていたんだろう。
その仮面を暴くのは、未来への執着にも近い恋心。
ただ一人の為だけに、出てくる素顔。
『未来を抱きしめる為の体が欲しい』
俺が気付かなかっただけで、ずっと願っていたであろう事。
聞いてしまった今、以前のように接する事は出来ないかもしれない。
体を盗られるかもしれない。
恐怖と罪悪感の狭間で、俺はため息をつく。
どれだけ怖くても、俺が和希さんに好意を持っているという事実は変わらない。
だから、俺は最大限の努力をする為に言葉を紡いだ。
「俺も、この間はすみませんでした。取り乱しちまって・・・」
「君が誤る事なんてない。悪いのは僕の方なんだから」
「けど、俺が・・・あんな風に伝えなけりゃ、こんな事にはならなかった。
俺が悪いんです・・・未来の気持ちも和希さんの気持ちも・・・分かってなかった」
「君が悪いわけじゃない。だから自分を責めるのはやめなさい。
他人の気持ちを思いやることは出来ても、他人の気持ちを100%理解するのは難しい。
まして、僕は君に話していなかった事もあったんだ。悪いのは、君じゃないよ」
静かに自分に言い聞かせながら、和希さんは話す。
ドアの前で立ちすくんだまま、心の中に罪悪感が広がってくる。
だってさ、やっぱり俺がいなかったら、こんな事にはならなかっただろう?
「違う。俺が・・・悪いです・・・」
泣きそうな気持ちを抑えながら、唇を噛んだ。
「堂本君は、悪くないわ」
突然会話に割り込んできた高くか細い声に、同じように否定され、
驚いて顔を上げると、寝ていたはずの未来が目を開けてこちらを見ていた。
「お兄ちゃんと話していたの?」
寝転がったまま顔だけを向けてくるその瞳は、とても穏やかだ。
「まだ傍にいてくれたんだ・・・よかった。もう見捨てられたかと思ってた」
俺のほうでも和希さんの方でもなく、俺の隣の空間に目を凝らす。
見えない和希さんの姿を探すように・・・
視線は和希さんを捉えない。
だけど、言葉は和希さんの心を捉えただろう。
未来の言葉に、和希さんは微かに悲しげな笑みを浮かべる。
「ねえ、堂本君。私がこんな事をしてしまったのは、堂本君のせいじゃないよ。
私ね、これ以上家の中から、私の周りから、
お兄ちゃんの気配が消えていくのに堪えられなかったの。
遅かれ早かれ、馬鹿な事をしていたと思う。
だから、堂本君のせいじゃないよ。心配かけてごめんね」
辛いのは自分たちなのに、未来も和希さんも俺を責めない。
それが余計に辛かった。
和希さんも、未来も、何故穏やかに微笑んでいられるのだろう。
二人の中で、何かが変わったんだろうか?
それとも、また俺にわからないだけで、穏やかな表情の仮面をかぶっているんだろうか。
「コウ君にね・・・話したの・・・怒られちゃったわ。死ぬなって、生きてくれって。
私って、幸せだね・・・皆が私の事を心配してくれる。
皆が私が生きていく事を望んでくれる・・・」
未来の視線が、また宙を彷徨う。
捉える事の出来ない和希さんを探している。
この眼を未来にあげてしまいたい。
和希さんの姿がみえるようにしてやりたい。
だけど、それは無理な注文だった。
「ねえ、堂本君。・・・お兄ちゃんは今どこにいるの?」
「・・・お前のすぐ傍にいる。すぐ横でベッドに座ってるよ」
俺に言われた場所をじっと見つめる未来の瞳と、
未来を見つめる和希さんの視線が、一瞬だけ絡み合った。
それはただの幻覚だろう。
未来には、和希さんは見えないんだから。
「・・・お兄ちゃん。もうちょっと待っててね。
お兄ちゃんに言われた通り、未来はがんばるから。
お兄ちゃんの分も生きようって決めたから。
だから・・・もうちょっとだけ待っててくれる?」
微笑んだ未来の瞳から、涙がこぼれた。
触れることの出来ない和希さんの指が、未来の涙をなぞる。
「待っているよ。いつまでも傍にいる。愛してるよ、未来」
聞こえているはずないのに、未来は和希さんの声が聞こえたように頷く。
「・・・堂本君、お兄ちゃん、頷いてくれたよね?」
俺は、無言で頷いた。
こんなに、こんなに愛し合っているのに決して結ばれる事のない二人の
抱擁よりも確かな、心の結びつき。
「まだ・・・どうやって生きていけばいいのかなんてわからないの。
だけど、私が生きていく事を・・・お兄ちゃんも望んでくれてると思うから・・・」
その決心が、諦めから生まれたものなのか、前向きなものなのか、
俺にはわからない。
だけど・・・生きていてくれる。
未来がそう言った。
「和希さんは、お前の傍にいるっていってるよ。ずっといるって」
「そう・・・嬉しい。ごめんね、お兄ちゃん。いつまでも心配かけて」
とめどなく流れる涙を、和希さんの指が辿っていって、
2人の間には確かな愛があるんだと、俺にも感じられた。
俺は、未来が好きなんだろうか?
コウに言われた言葉が、まだ理解できない。
本当に、俺が未来を好きなら、この2人の間に流れる空気に嫉妬するんじゃないか?
でも俺は、安堵すら覚えているんだ。
穏やかに微笑み合う二人に、喜びすら感じていた。
「・・・和希さん以上にお前を大切に出来るか、俺にはわかんねぇけど・・・
俺が、傍にいるからさ。和希さんやお前が望むんなら
いつでも和希さんの言葉を伝えるから・・・」
「君は・・・どこまでもお人よしだね。僕が怖くないのかい?」
いとおしそうに未来を見つめていた視線を、俺に向けて和希さんが苦笑した。
確かに・・・まだ怖いかもしれない。
だけど・・・自分の恐怖心よりも、2人が笑ってくれる事の方が重要だった。
別に自己犠牲精神を発揮しているわけでもなくて、
俺が出来る事は、それしかないと思った。
「・・・俺は・・・和希さんも未来も好きだ。だから、笑っていて欲しいんだ」
和希さんも未来も、何も言わずに微笑む。
だから俺も微笑んだ。
まだ、どうすればいいのかなんて、わからない。
今はただ、穏やかに時が過ぎるのを祈った。
未来が生きると決めた事で、全てが変わっていくだろう。
そう思った。
それがただの希望的観測なのだと、思い知るのはもう少し後のこと。




毎日毎日、未来の病室に足を運ぶ。
バイトで遅くなっても、こっそりと忍び込んで、たまに看護士に怒られた。
そんな俺をみて、和希さんも未来も笑う。
日々はただ穏やかに過ぎる。
俺の前では、未来も和希さんも決して辛そうなところは見せない。
和希さんへの言葉を未来が話し、和希さんがそれに答える。
未来に伝わらない答えを、俺が伝える。
奇妙な関係は、穏やかに進んだ。
それは、俺が望んだものに近かった。
くだらない会話をしたりして、楽しい時間はあっという間に過ぎる。
だけど、未来の病状は一向に回復に向かっているとは思えなかった。
食事もちゃんとしているというが、青白い顔も痩せた体もそのまま。
元々細い方ではあるが、これは痩せすぎだろう。
和希さんが言うには、食事も半分は残しているそうだ。
このままじゃいつまでたっても退院できないぞ。と俺も和希さんも怒ると
未来は渋々頷くが、量が多いのだとダダをこねる。
優しくて、くすぐったい時間だった。
未来も和希さんも、そう感じているらしくて2人とも楽しそうだ。
一度だけ、未来が寝ている時に和希さんが言った。
まだ葛藤はあるのだ・・・と。
生きていて欲しい。幸せになって欲しい。
けれど、まだ未来を連れて行ってしまいたいと、考える事もあるのだ・・・と。
未来を手に入れたい気持ちと、
彼女の幸せを願う気持ちとの間で、揺れる事があるのだと。
自嘲気味に微笑んみながら。
『君に迷惑をかけているけど、だから君が未来を幸せにしてやってくれ』
和希さんは、諦めたように呟く。
迷いながらも、俺は頷いた。
和希さんが体を欲しがっているそぶりを見せたのは、あの一度だけ。
今も欲しているだろうに、そんなそぶりは微塵も見せない。
だから、俺は安心していた。
油断していたんだ。
思いもよらない不意打ちに、抵抗出来なかった。


事件は、未来が退院した日に起こった・・・。




嘆きも、悲しみも、怒りも、迷いも・・・全ては彼女のためにあったんだろう。
優しさも、哀れみも、愛しさも、切なさも・・・彼女の為だけに。
今ならそう思える。



【続】
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◆◆◆◆◆◆◆◆一言◆◆◆◆◆◆◆◆

何かが起こるー何が起こるー
あっはっはー。
後半に突入したので、
モノローグの調子をちょっと変えました。
過去を思い出しながら語っている感じですね。
やっとやっと・・・次はあのシーンです。
「そこに〜」を書き始めた時から、書きたかったシーン。
でもあまり期待してはいけません(笑)






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